真っ白な、幻の世界

最近、おかしな夢をよく見る。居眠りをしているときに、よく見る夢だ。

 

その夢は、それを見たのかどうかすらも分からないほどに抽象的で、一切の物理的な動きを、五感の働きを、焦りを、緊迫を含まない。一切の具体的な印象は、残らない。ふと目が覚めると、異世界の冒険から記憶を消して戻ってくることを選択したファンタジーの主人公が、日常の再開の瞬間に一瞬覚えるような、何か強く大きな世界がそのまま消滅したかのような違和感と、そこに大切な何かを置き忘れたかのような虚無感のみが、そこに残されている。

 

人はそれを思い出そうと、記憶にとどめようと懸命になる。しかしそう決意するほどの理性が復活した頃には、それはすでに記憶の彼方に飛んで行っており、些細な手がかりすらも、最早残されてはいない。確実に先ほどまでは存在したであろう「答え」を探したくて、それを言葉にしたくて、でもそう思ったころにはすでにどこを探せばいいのかすら分からなくて。そして、あまりのどうしようもなさから、「答え」など始めからそんなところにはなかったのだと、すべては気のせいで、そんなことは時間の無駄なのだと、決めつけて考えるのをやめてしまうことが、一切の矛盾をはらまなくて。

 

そして矛盾するようだが、今日はその「夢」の中身を、少しだけこちら側へ持ち帰ることができたので、それを紹介しようと思う。

 

背景が真っ白な世界に、どこまでも平行に、決して交わらずにまっすぐに伸びる、鉄道の路線が走っている。ちょうど人間の身体と同じサイズの電車が、望んだときに、望んだ場所に現れる。夢の中の僕は、そのとても速い電車に、好きなところで乗って、好きなだけ進んで、好きなところで降りる。道中も、降りた先も、ただどこまでも壁紙のように真っ白な、無音の世界で、幸せというどこまでも抽象的なものでさえ、具体的な形を帯びているようで。その様子をはるか上から俯瞰する僕が、感覚を同じくする存在として、一切の引いた目線を持たずに、存在していて。

 

夢の中で僕は、なんだってできて。電車はすぐに、目的地に到着して。でもその世界は真っ白だから、具体的な何かをすることは絶対になくて。その世界には具体的なものは何一つ存在しないのだから、矛盾をはらむことすらあり得なくて。ただまっすぐに電車を乗り継いで、その抽象的な、そしておそらく、感情そのものが実体をもって現れたようなその背景を、幸せが手でつかめるかのようなその世界を、ただ無条件に味わって。

 

夢とは所詮、自らの脳の見せる錯覚である。自らの頭の中にないものは、決して現れない。しかし我々は、その夢の中の我々の想像力にしばしば感心する。はっきりした頭では決して考えられないような、支離滅裂で、前提もめちゃくちゃで、しかし面白い世界を、夢は見せてくれる。まるでそこには自分をはるかに超越した存在がいて、昼間の我々が必死で探し求める「答え」を持っており、その片鱗を見せて、それに必死で触れようとする我々を、からかって遊んでいるかのように。

 

それゆえ人は、夢を思い出そうと躍起になる。根拠はないし、おそらくはただ寝ぼけているだけなのに、そこに存在したような気がする「答え」を、取り返そうとする。取り返すこと、それは往々にして言葉にすることだ。そして言葉にしようと準備をすることすら、その脆い世界を粉々にして、跡形もなく消滅させるのに、十分すぎる衝撃となる。

 

人は、正当化を行う生き物だ。そして、人は正当化が上手だ。人を殺すことすらも、納得のできる形に昇華させてしまうほどに。

 

それゆえ人は、答えなどそこには存在しなかったのだ、すべてはただの錯覚だと、納得することにする。そもそも答えが、自分の頭の中にすでに存在したなんて、そんなことはあるわけがないと。そして後には、この居眠りは、そして期待は、何の役にも立たなかったのだという虚無感のみが残る。それでも夢は同じように、人に答えの片割れを、変わらず見せ続けてくる。

 

今日の僕は、その答えの片鱗を、夢から奪ってくることができた。それは答えと呼べるほどはっきりとしたものではなくて。そこで見えたものは、現実の僕の行動を変えるような教えを、何一つ含まなくて。しかし少なくとも、普段の虚無感を、味わわずに済んだ。言葉にできない、記憶の中にすらも存在できないように思えたその世界を堪能した自分を、そこで覚えた、どこまでも強くて、そしてどこまでも脆い感情の欠片を、持って帰ってくることができた。

 

夢とは不確実なものだ。古今東西、あらゆる人が夢の強さに惹かれ、夢を操ろうとした。所詮自分の頭の中で起こっていることなのだ。頭の中で、完結する世界なのだ。意のままに操れても、何らおかしくはないと。それでもその試みには、まだ誰も成功していない。

 

だから僕が、この幾度となく見て、そして初めて持って帰ってくることのできたこの夢を、もう一度見ることがあるのかどうかはわからない。だが少なくとも、これだけは確実に言える。夢の片割れを、一度、ほんの少しでも心に残しておくことができた僕には、もうあの正当化を行う必要も、権利も、残されていないということだ。