「心ある正論」について

twitterで「たとえ頭が良くても、相手の気持ちを汲み取らず、正論を振りかざして相手を傷つけるのは許されない」という主張を見たので思ったことを述べる。


まず、主張自体はよくあるものであり、我々がよくやるように「ただの僻み根性」として一笑に付してしまっても一向に構わないわけであるが、やはり思うところがあったのでここに書き記そうと思う。


ます、我々が正論で相手を傷つけるとき、果たして我々は相手の気持ちを汲み取っていないのだろうか。むしろ、相手の気持ちが手に取るようによくわかるからこそ、相手の弱点に的確に突き刺さる一言を発せるのではないか。我々は相手の気持ちを正確に汲み取った上で、あえてそこに一番適した武器を持って、相手を征するはずだ。勿論、いわゆる「心ないハラスメント」の類は完全な独りよがりであるし、その行動のファクターとして相手の気持ちなど存在しないのだが、それはそもそも正論ではないわけで、僕はそういう話をしているのではないのである。


そして、我々は知的好奇心からか、または曖昧なものを嫌う心からか、常に自分の心に残るわだかまりに対して目を向けようとしている。自分の心の弱点を把握し、自らそこに銛を打ち込んでいくことは、我々自身が最も望むことだ。我々は本質的な苦痛をたえず求め続け、そして苦痛の正体が曖昧な状態こそが最も苦しい状態である。我々はかりそめの苦しみから脱するために苦しみに目を向け、新たな、より根源的な苦痛を手に入れようと努力する。苦痛の発展の終着点など信じないし、苦痛の先にあるのは新たな苦痛だけであることも知っている。最早苦しみは自らを再生し、高め、自らの在り方の最高峰を求める手段などではなく、苦しみこそが目標であり、苦しみこそが幸福である。そして、その苦痛を手にするために手段を選ぶ理由はない。苦痛を自らの手で得たという事実には、何の価値もない。


「苦しいかどうか」と「その状態を求めるかどうか」は、分けて考えられなければならない。相手の気持ちが汲めるからこそ、相手の苦痛への鍵のありかが分かる。苦痛の発展を求めるものとしての考え抜かれた良心と、同じ苦痛に共に潜る者を求める孤独があれば、その苦痛を共有することへの躊躇はなくなるだろう。我々は相手の気持ちを汲むからこそ、的確な正論で相手の心に銛を打ち込み、そして銛を打たれることは本望だ。傷つけられた相手は、「苦しみをありがとう」と、こう叫ばなければならない。


錯綜しているのはわかっている。理性的でないのも分かっている。苦しみを避けたくないのなら、それは最早苦しみではないのだろう。しかし僕は、これを喜びと表現しようとは思わない。そして、苦しみが連鎖するその状況こそが、自らを顧みるということができる存在の本来の姿である、とすら思っている。


さて、僕に対する反論としての正論はおそらく、以下のようになるだろう。すなわち、苦しみを求めるのはお前だけで、苦しみを求めることのない多くの人にまで、苦しみを強要することはないだろう、と。これに対する答えを、僕はまだ出せずにいる。苦しみを求めない人間は、果たしてどれほどの割合で存在するのだろうか? 相手の気持ちを汲む、ということには、単に相手の立場に自分を置いてみること以上のことが求められているのだろうか? だとすれば、相手への無関心の極み、いわゆるパターンマッチこそが、人間関係において最も求められていることなのだろうか?


なにはともあれ、この文章は単に現在の僕を書き記したに過ぎない。価値観は常に変遷するものであり、自己はどこまでも相対化できるものである。しかしそんなことを言ってしまってはキリがないので、主張がある程度の具体性を保っている今のうちに、筆をおいておくことにする。