僕は加藤和也にはなれない

何かに熱心になること、そのことしか考えられないほど熱中すること、そして、純粋に好きという気持ちだけでそれを続けられること。

 

それは素晴らしいことだと思うし、皆そう思っている。寝るのも忘れてバットを振る野球選手は美しいし、ただひたすらに作品を作り続ける伝統工芸の職人は尊敬される。

 

そのあまりにも明確で、強い気持ちは、人を魅了する。そして純粋な羨望の対象となる。それゆえ人はこう言う。「本当に好きな何かを見つけなさい」と。一切の悪意を含まず、純粋に、本当に楽しい人生を送るためのアドバイスとして。それを見つけた自分の覚えるであろう真の楽しさを、究極の喜びを夢想して。

 

もちろん僕もその一人である。僕は、周りより数学ができた。数学オリンピックの日本代表にもなった。今でも、大学の細分化された学問体系の、僕が専攻したいと思っているとある分野では、少なくとも国内の自分と同学年の学生の中では、誰にも負けていないと思っている。

 

そして、僕は数学が好きだ。人が10分で考えるのをやめるところを、3時間考えていられる程度には。そして悲しいことに、普通の人から見ると、それはいつまででも考え続けられることと、区別がつかないのだ。

 

熱心になれること、好きでいられること、それは究極の喜びを夢想する人間にとっての規範である。究極の喜びを得るために、人はそれを好きでなければならない。本の証明が理解できなくても、疲れていたとしても、それをやり続けなければならない。朝から晩まで、そのことばかり考えていなければならない。好きなのだから。好きだと決めたのだから。

 

好きでいるかどうか、熱心でいられるかどうか。それは気持ちの問題だ。それゆえ人は熱心になれない自分を責める。起きてから寝るまで16時間、どこかで必ず気が抜ける自分を責める。休み休みに6時間しか考えられない自分を、たとえ6時間考えられること自体が一般には特別なことであったとしても、心が弱いと責める。16時間、考えられる人は確実に存在するのだから。そういう人についての話を聞くのだから。そして、自分は、本当に好きであるはずのことについて、才能なんかではなくて、気持ちで負けているのだから。

 

加藤和也という数学者がいる。数学に熱中するあまり駅を半裸で歩いて補導されたとか、そういうエピソードのある数学者だ。我々はそのエピソードを聞いて、とりあえず変な人だと笑う。しかし確実に、それを格好いいと感じる。そうなりたいと望む。補導されたいとは思わないにせよ、自分が半裸で外を歩いているという明らかな異常性にすら気付かないほどに、何かに熱中してみたいと思う。そして、自分がそれができる人間であることを示すような、武勇伝を欲しがる。人はその武勇伝のために、自分の姿を見ようと開きかけている目を、強制的に塞ぐことさえする。

 

人は自分を見る目を塞いでまで、熱心になろうともがく。好きでないことは不誠実だ。その対象に、そして自分自身に誠実であるために、現実の自分の姿に目をつぶる。自分をその理想像に投影し、そしてその理想を省みることをしない。理想と現実の乖離を、頑なに認めない。

 

スクリーンには、屈託のない笑顔を浮かべた未来の自分が、何かすごそうな賞を受賞しているのが映っている。その映画館の座席では、作り笑いを浮かべた青年が、ただポップコーンをつまんでいる。本当はポップコーンなどつまんでいる暇はないはずなのに。本当にスクリーンに映っているべきは、すごそうな賞を受賞している自分などではなく、その好きなことを、普段通りに楽しんでいる、普段の自分であるべきなのに。